「コリオリの力」
羊水の中に浸っていたのは、自分ではなかったのかと、ふと思うことがある。
その日、東の海上から張り出した1014ミリバールの移動性高気圧が日本列島全体を包み込み、朝鮮半島の北西部では低気圧が発達しつつあった。東高西低。「鯨の尾」と呼ばれる典型的な夏型の気圧配置だ。張り出した高気圧の等圧線は、たしかに鯨の尾びれに見えなくもない。14時、高崎と熊谷でその夏の最高気温が塗り替えられた。フェーン現象。うだるような暑さという慣用句があるが、実際は、フェーン現象が発生すると湿度は下がる。
測候所には、朝からパレードの控え室のような緊張感が漂っていた。ここ数日の気圧配置の変化から、今日、最高気温を更新することはほぼ確実だった。所員は、本庁や観測点との連絡、マスコミや一般市民からの問い合わせに振り回されるだろう。しかし、その忙しさを厭う者はほとんどいない。私もそのうちの一人だった。
漁師が遠くの岩礁に、岬の沖合いに、白く輝く海猫の一群を見つける。その瞬間の胸の高鳴りも、今のこの高揚感に似ているのだろうか。読点のように丘の中腹に張り付く測候所にも、年に数度、感嘆符は書き込まれる。
倉庫の内線電話が鳴った。予備の流速計を整備していた私は、潤滑油で汚れた手をウエスでぬぐい、深呼吸をひとつする。受話器に手を伸ばす。ダイヤルのない黒電話は、反駁を許さない厳格な裁判官を連想させた。
「吉田さんに、ご家族からです」
やはり、妻からだった。妻は小さくしゃくりあげるとひと言「ごめんなさい」と呟いた。死産だった。心臓を背後から、研ぎすまされたアイスピックでひと突きされた気がした。膝から下の感覚がない。私が地震計の記録用紙を取り替えている間に、セロファンのような命は、世界を1ミリも震わせることなく消え去ったのだ。私も妻も次に紡ぐべき言葉を持ちあわせてはいなかった。沈黙が去るとやがて静謐が支配した。沈黙にはなにかが充填されている。しかし、静謐にはそれがない。
なぜだかわからないが、私は妻の今いる場所、そこは市民病院などではなく、人類史上もっとも古い壁画が発見されたスペインの洞窟のような気がした。アルタミラ洞窟。トーストにジャムをぬりながら眺めていた朝刊の写真に、そんなキャプションが添えられていたのをふと思い出した。
私は、自分が世界から切り離されたことを察知した。友人からも思い出からも場所からも時からも。ありとあらゆるものから切り離されて、私は一個の薄幸で貧弱な、ユークリッド幾何学にならうなら、位置を持ち部分を持たない点Aとして<ここに>存在している。そしてこの静謐は気のせいなどではなく、世界と自分の関わりの消失をなによりも雄弁に物語っていた。
妻に代わって、妻の母親が電話口に出た。「すみませんでした」と張りを失った声帯で何度も繰り返す。しかし、その言葉は行き先を間違えた切符のように、どこにも居場所はなく、ただ肩を寄せ合って消えるのを待っていた。
電話を切ったあとも、私はしばらく作業を続けた。流速計のアルミニウムの尾翼をいつもよりていねいに磨く。こいつはいつの日か、紺碧の空の下で、旺盛な生の息吹をまとった疾風をその翼に受け止めるのだ。悠然と。果敢に。そして、あたりを睥睨し風がやってくる基点、つまりは世界の始まりを毅然と指し示す。その勇姿を、私は目を細め誇らしげに仰ぎ見るだろう。
不意に涙が溢れ出す。嗚咽が漏れそうになった。奥歯をくいしばる。死産に関して私が涙を流したのはこの時が最初で、そして最後だった。
所長に事情を告げると、私はサドルに跨った。測候所から市民病院までは、約20分。飛ばすと15分とかからない。
自転車のペダルを踏みながら、私は「見出し」を考えていた。新聞なら<測候所職員Y氏の第一子死産>。週刊誌は<死産だった!!本誌独占Y氏単独インタビュー>。もちろん、一介の観測員の死産など、マスコミネタになるわけがない。自分でもなぜそんなことを考えているのか奇妙だった。
私は、ただただ怯えていた。<それ>と対峙することに怖気ついていたのだ。父性というものがあるとするなら、あのダイヤルのない黒電話にすべて吸い取られてしまったのだろう。
私は怖れと同時に、ある種の理不尽さも感じていた。やわらかな西陽の差し込む休日に、突然、差出人不明の宅配便が配達されたような微かな暴力。
両腕でかかえたダンボール箱の中には、鱗のない双頭の魚が収められている。粘液の糸を引きながらのた打ち回る化け物が、目を剥き、甲高い声で泣き叫ぶ。そう思うと背筋から汗がひいた。
踏み切りを渡り、路地に入る。街路樹の小枝が肩先をかすめる。私が切り離されたのなら、妻も切り離されたはずだ。点と点は、最短距離で結ばれなければならない。ユークリッド幾何学がなんといおうとも。
ペダルに体重をのせる。私と自転車の影は、力強いコントラストをアスファルトに転写し、並走する刻印になる。停車していた軽トラックから甲子園のサイレンが聞こえた。カーラジオから流れるサイレンは、はるか遠い昔に鳴らされたと錯覚するほどに弱々しく、瞬く間に蝉の声に押しつぶされていった。
あの日からどのくらいの時間が流れたのだろう。気象庁は気圧の単位をミリバールからヘクトパスカルに変更し、多くの測候所が閉鎖された。私は測候所の閉所とともに仕事を辞め、自分の人生にピリオドをひとつ付け加えた。
退職後のあてなどなかった。プールの飛び込み板のようなものだ。ただ、きっかけがほしかっただけなのかもしれない。風をはらんで、しゅるしゅると世界の基点を指し示していたあの流速計とともに私も消える。流速計には<従者>がいて、流速計となりうるのだ。それはくたびれた観測員に許された、たったひとつの矜持のように思う。
コットンパンツのポケットから四つに折りたたんだメモ用紙を取り出し、バス停のベンチに腰を下ろした。メモを見ながら買い物袋の中身を確認する。高野豆腐、文鳥のボレー粉、レンコン、合い挽き250グラム、シロップ(イチゴ)、大葉、オソウメン。すべての品物の個数が1なのに、ひとつひとつに一箱、一袋、一本と書かれている。妻らしいな、と思った。
ふいに視界の片隅でなにかが動いた。アキアカネだった。
アキアカネは、一般には赤トンボと呼ばれている。盛夏を山あいで過ごし、晩夏から初秋に里に降りてくる。私は時期が少し早いなと感じた。観測員は、動植物にも詳しいのが普通だ。自然に傅くこと。それが観測員の習わしだったから。
アキアカネは歩道のマンホールの上を、指揮者のタクトの軌跡を描いて飛んだ。マンホールには、午前中に降った通り雨の水がたまっていた。水面と呼ぶには狭すぎて、水深と呼ぶには浅すぎる。水たまりには、ガソリンの皮膜が薄く張り付いていた。首を少し傾けると七色の皮膜が緩々と動いているのがわかる。
水溜りの上には、人にはわからない気流の層があるのかもしれない。その層の間隙を縫うように、アキアカネは穏やかな下降と上昇を繰り返す。やがて決心したかのように、地面すれすれまで降りてくると、尾を下にして卵管を水面に浸した。何度も何度も水面に接触させるその姿は、敬虔な巡礼者の祈りを思い浮かべさせた。尾が触れるたびに、水面には淡く緩慢な波紋が広がる。
マンホールの水はやがて蒸発するだろう。そして卵は孵化しない。ただそれだけだ。<そういう>事実がひとつあるだけだ。善悪もなければ虚実もない、分別も階層も具象も抽象も。形而上も形而下も躊躇も憐憫も、そこには入り込む余地がない。そう、あるのは自然だけなのだ。それ以外は<あってはならない>のだ。
気圧計のついた腕時計を見た。1014ミリバール。あの日と同じだ。風が通り抜ける。声に出して言う。「南東からの風、風力2ないしは3」。
私は歩き出した。大腿四頭筋の力で。川へ向って、強い風が吹いてくる方へ、世界の始まりへ。路線バスが傍らを通り過ぎ、やがて小さな陽炎を作った。
<了>
「 バンビ 」
1
悟は、鳩を数えていた。十羽目からは面倒になって、床から天井まではめ殺しになっているガラスをぼんやりとながめていた。それにしてもこいつらは四六時中なにを啄ばんでいるのだろう? 毛虫? ポテトチップスの食べかす? 落ちているものはとりあえず手当たり次第に啄ばんでみる、きっとそういう習性なのだろう。
「見せろよおー。どっかにウプとかしなきゃ別に平気でしょ?」
カナの声だ。
「まあな」
そしてユウジ。
カナの携帯がキラキラしていた。ビーズであしらわれた携帯のバンビが陽の光を受けて陽炎のようにゆらいでいる。カナが一歩歩くたびに、モルタルの天井に反射した薄紫やサックスブルーの光の輪が、大きくなったり小さくなったりしながら近づいてくる。
一週間ほど前にカナは、このビーズは全部自分で貼り付けたと自慢していた。しかし、悟はそれがすぐに嘘だとわかったからわざと冷淡に「へえ、すげえじゃん」と流した。カナは自分の嘘が見破られているとは気づいていないだろう。いや、正確に表現するならもし気づいたとしても、その嘘を呵責する感受性はとっくに麻痺している。ディズニーが好きな女なんてそんなものだ。
ユウジはスニーカーの外側でプラスチックの椅子の脚を軽く蹴るとそのまま体重を預けた。カナは携帯をたたむと、真珠のような光沢の小さなバッグに押しこんだ。
「早く見してよー」
「ちょっと待てよ」
ユウジは椅子の座面にスニーカーの踵を乗せていた。短パンに素足。授業やバイトのない時は近所の駒沢公園で日に焼いているから、肌はもうすっかり小麦色になっていた。
「グロ耐性あるから平気だって」
「言っとくけど、そんなにグロくはないぜ」
「前に強烈なやつ見たよ。ヘリコプターの羽根で頭ズタズター」
「うわ」
「あっ、ちょっとシェイク買ってくる」
「あいつ絶対わざとパンツ見せてるよな?」
ユウジの視線はカナのローライズの腰に張り付いたままで、同時に悟にもそうすることを促しているようだった。
「だろ」
悟はカナの<バンビ>のことを思い出していたから、ヘリコプターのローターやパンツは唐突過ぎて「だろ」と答えることで精一杯だった。
「見たってさ、それ海外のグロサイトとか?」
「そそ。ホントに見たらぎょえーでしょ? 生きていけないわ」
「こっちは別に脳みそとか写ってないし」
「だから、見してよ」
「そのだからってなんだよ?」
「リアリズムってやつ? 脳みそってさ、意外ときれいな色してるんだよねえ」
ピンク色のストローの中で、象牙色をしたシェイクが心臓の弁膜のように上下動している。ユウジは片方の尻を持ち上げるとポケットから携帯を取り出しテーブルに置いた。悟はその時初めてテーブルが思いのほか汚れていることに気がついた。ケチャップや蕎麦つゆや消しゴムのかす。午後の授業開始を告げるチャイムに驚いて、鳩が一斉に飛び立っていった。
「悟も見たい?」
ユウジは携帯をつかむとその角でテーブルをコツコツと二度叩き、動画の再生ボタンを押した。
3.2インチの画面に最初に映し出されたのは救急車だった。歩道に人が群がり、そのうちの何人かは携帯やデジタルカメラで「現場」を撮影していた。エメラルドグリーンのポロシャツを着た若い女がティッシュを配っている。別の緊急車両のサイレンと警察官のホイッスルが重なった。
悟は奇妙なことに気がついた。これほど大勢の人間が「現場」にいるのに、動画からは人の声がまったく聞こえてこないのだ。ずいぶん前に観たナショナルジオグラフィックの VTRを思い出した。ガゼルの大移動。嘶(いなな)き上げずに駆け抜けるガゼルの群れは、まるでそれ全体が一頭の巨大で寡黙な獣のように見えた。
「アキバじゃん!!」
カナの赤毛が悟の鼻先をかすめた。トリートメントと皮脂とタバコの混じり合った匂いが漂う。
アキバという言葉に隣のテーブルの学生が一斉に振り向いた。
カナは知っていた。ここでアキバと声にしたら人はきっと反応する。そして自分は特別な存在になるのだ。カナはこの瞬間が好きだった。
映像が一瞬途切れる。次に映し出されたのはふたりの若い警察官の後姿だ。「POLICE 万世橋」と描かれたベストを着たその警察官は、手袋をはめた手でくすんだブルーのビニールシートを掲げている。カメラはシートのすき間に潜り込む。ここで初めて人の声がした。「下がってくださーい」。声の主は警察官だろう。
代ゼミにでもいそうな青年がバックパックを地面に置くと、横たわっている女の子のサンダルを脱がし始めた。痩せた中年の女が心臓マッサージをしている。彼女は代ゼミになにか話しかけているが、上空を旋回するヘリコプターの音にかき消されて聞き取れない。胸骨を押すたびに女の子の腕も微かに動く。しかしそれは無機的で、理科の教科書に載っていた作用と反作用の往復のようにしか見えなかった。
「この子、死んだんじゃん? この黒いの、血だよね」
「たぶん」
ユウジが面倒くさそうに答える。画面では代ゼミが司祭のような手つきでサンダルを揃えていた。
「なんかさあー、ダメっぽくない?」
ストローの端にカナの口紅がこびりつき、シェイクと混ざり合う。
動画が再び切り替わった。外人のグループが公園でフリスビーのディスクを投げ合っている。ユウジは動画の停止ボタンを押した。
「結局、何人死んだんだっけ?」
カナはバッグの中からゴルチエの財布を取り出すと、クレジットカードを一枚ずつ引き抜き、表と裏を交互に眺めていた。「七人とか?」視線は三枚目のカードに注がれたままだ。カナの中でアキバはとっくに終わっていた。
悟はアイスカフェオレを一口飲むと、視線をテーブルの上の携帯に落としたまま呟いた。
「それ撮ったのお前?」
「えっ、なんで?」
「アキバとか行くんだ」
「めったに行かねえよ。なんかキモイじゃん」
「でも、これ、ユウジが撮ったんだろ?」
「なんかパソコンがもうダメぽくて。G4だからさ。たまたま」
「自慢?」
「ん?」
「得意になってんの?」
「得意ってなにがだよ? 新しいパソコン?」
「いや、動画だよ。こういう絵撮ったオレってすげえー、みたいな」
「はあ?」
「だって見せびらかしてるじゃん」
「別に見せびらかしてはいねえよな?」
「つかさあ、よく撮れるよなー」
「撮ってたのオレだけじゃないって」
「いや、誰が撮ったとかじゃなくてさ」
「じゃあ、なんだよ」
「この女の子、お前の妹でも撮ってた?」
「はあ? 逆に聞くけどさ、この子お前の妹なの?」
「なわけないじゃん」
「他人だろ?」
「そだよ」
「ならなんでお前がいちいち突っかかってくるわけ? 関係ねえのに」
「この犯人さ、派遣切られて、んでむかついてやったんだろ?」
「しらねえよ」
「らしいよ。理由はそれだけじゃないと思うけどさ」
「んで?」
カナがバッグからiPodのヘッドフォンを引っ張り出していた。
「君たち、あたし帰るよ。いい? 犬に注射打ってもらうんだわ」
「おう、またなー」
ユウジが掌をヒラヒラさせている。悟はカナを一瞥しただけで無言のまま両手を頭の後で組んだ。カナのシェイクが腕に触れた。小動物のように肘を引っ込める。悟は二人に気づかれないよう用心深く小さな舌打ちをした。
「ユウジさあ、こいつってさ、むったから刺したって知ってた? 突然。刺されたほうはたまったもんじゃねえよなあー」
「で?」
ユウジは明らかに不機嫌になっていた。悟は話を切り上げようかと一瞬迷った。ユウジにはさっぱりしたところがある。今なら「ごめん。言いすぎた」ですまされるかもしれない。けれども悟は話を続けなければいけないような気がしていた。これはユウジだけの問題じゃない。ユウジもカナも、そして誰よりも自分自身が「救済の物語」を必要としていた。
「なな、むかついたから刺すってさ自分のことしか考えてないよな。お前も似てない? 自分のことしか考えてねえからこれ撮れたんだろ? 刺された本人はもちろんだけどさ、その人の家族とかさ、必死で心臓マッサージしている人の気持ちとか想像したことある? 要するにネタなんだろ? 学校に持ってったらみんなに注目されてオイシイみたいな。お前、一緒じゃん。刺した奴と。相手のこととかぜんぜん考えてねえよな。すげえーとか、やべえーとか言われて得意になってるだけじゃん。目の前で人が死にかけてるのにさ、よく撮れるよなあ。つか、逮捕された奴は死刑になるじゃん。お前は死刑にはなんねえよ。死刑になんなくても自分は注目されるよな? そういうの狡猾って言うんじゃないの?」
「狡猾? 野次馬とかさ普通に指差しながら見てるだろ。撮影したからどうだって言うんだよ? ニヤニヤしながら見てる奴と本質的にどこがどう違うんだよ? まじでキモイわ。これガンミしておきながらよくそんなこと言えるよな」
「撮影して人に見せびらかすのと、それを見るのとはぜんぜん違うと思いますけど? なに話すり替えてるんだよ」
「なんでそんなに熱くなってるの? 撮ったことがそんな大問題かよ。相手の気持ち考えろとかって、普通に気持ち悪いから。正義感っすか? 倫理観? お前はマザー・テレサかよ。つかさあ、オレと犯人を一緒にしてんじゃねえぞ」
「一緒になんかしてねえよ。安全地帯にいる分、こいつよりずるいって言ってんだよ」
ユウジは椅子に乗せているスニーカーの靴紐を解くと、もう一度きつく結び直した。指先が微かに震えている。
「悟さあ、お前、サークルの部室に『批評空間』とかわざと忘れていってない? あれわざとだよなー。とかさ、一年の杉田とメール交換してるよな? んで、タルコフスキーとかさトリアーとかの講釈垂れてるだろ? あと柄谷行人がどうたらとか。デリダとか。しかも全部コピペだし。んで本当に狙ってるのは杉田の友だちの和久井なんだって? お前の書いたメール、晒されてるの知ってんの? 一年とかみんなお前のことキモイってよ。小道具使って気惹こうとしてるのバレバレだし。当然だよな。要はやりたいだけなんだろ? ダサ。それなのにインテリぶったり。ガンミしてたくせに突っかかってくるし。そういうの偽善者って言うんだよ。お前まじでカスな。やってること人間のカスだよ、それ」
悟は目の前のアイスカフェオレのカップを手の甲で払った。カップは弧を描く暇もなくユウジの鎖骨に当り、白いTシャツに薄茶色のシミを作ると乾いた音を立てて床に転がった。シミの外縁はゆっくりと、野火のようにTシャツを侵食し、テーブルに散らばった小さな氷が音を立てずに回転している。悟は無言のまま立ち上がるとバックパックを肩にかけ、OSHMAN'Sのビニール袋を右手に持つと、出口に向って歩き出した。
「生まれてこなきゃ良かったのにな」
悟は一瞬立ち止まりかけた。けれどももしその言葉に反応したら、きっとなにもかもが瓦解するだろう。瓦解? いったいなにが? いったいなにが崩れ去り、なにがそれをかろうじて支えているのだろう。悟は混乱していた。
カフェテリアのドアを押す。生暖かく湿った空気に全身が包み込まれた。それはまるで羊水で満たされたプールの底に横たわっているような気分で、悟は少しだけ安堵した。
2
悟は、椅子に浅く腰掛けたままの姿勢で目を覚ました。昼なのか夜なのか咄嗟にはわからなかった。腕時計をまさぐる。「20:22」 悟は、腕時計のバックライトの曖昧な光でさえ眩しく感じて目を細める。どのくらい眠っていたのだろう。思い出そうとしてみたがラードを充填されたかのように頭が重く、あきらめる。
三日前に食べた押し寿司の残飯やアサリの缶詰やウイスキーの匂いが混じり合い、部屋に沈殿していた。人間の腐乱死体は、魚が腐ったような匂いがするとなにかで読んだことがある。悟は一瞬、自分自身が死臭を放っている気がして肩のあたりに鼻を近づけた。
意識が鮮明になるにつれて悟は闇に怯えた。慌てて机の上をさがす。指先がテレビのリモコンに触れた。電源を入れると液晶の光が靄のように拡散する。画面の中では三人組みの女性アイドルが歌っていた。悟は音声をミュートにすると、目がさめた時と同じ姿勢でしばらく画面を見つめていた。ふいに両腕が動き出す。アイドルの踊りを真似しているのだろう。その仕草はまるで狂人のようだったけれど、悟は意識をなにかで満たしてさえいれば「彼」はやって来ない、と信じていた。
悟は、五日前に大学のカフェテリアでユウジと揉めて以来、常に誰かに監視されているような感覚に苛まれていた。
最初にその「声」を聞いたのは、部屋にやって来た初老の新聞勧誘員に応対した時だ。「声」は言った。
<インターフォンを一旦切って、玄関のドアをわざわざ開けたのは誠意なんかではない。誠実さを演じたいというエゴだよ。お前は男の訛りを馬鹿にしていたし、そもそも最初から新聞など取るつもりはなかった。慇懃に応対したのは、敬意を装った欺瞞だ。お前は自分の寛容さを再確認して悦楽に浸っていたかった。とことん卑しくそして薄汚い>
悟は新聞勧誘員が帰ったあとも体の震えがしばらくとまらなかった。胃酸が逆流し何度も喉を焼いた。毛布を頭から被り胎児のように四肢を折り曲げると、やっと震えがおさまった。
自意識を他者の目線で捉え直すことは誰にでもある。しかし、その「声」が単なる自意識の反芻と決定的に違っていたのは、それが新しい自我を獲得しつつあることだった。その証拠に「声」は「僕」の埒外からふいにやって来た。そしてエゴを摘出し、解剖台に並べ、ひとくさり分析してはまた勝手に帰って行く。そんなことが何度も続いた。このまま「彼」を放置していたなら、やがてそいつは「僕」を粛清し、我が物顔でそこら中を闊歩するに違いない。僕は僕に怯えていた。
寝ている間ににわか雨が降ったのだろう。ベランダのサッシを細く開けると、濡れたアスファルトの匂いと錆臭さをはらんだ風がブラインドを揺らした。悟は電話線をモジュールに差し込むと、コンクリートの壁にろう石で走り書きされた電話番号のひとつにダイヤルした。
「はい。石焼きビビンバとテールスープで。お願いします」
受話器を戻し電話線を抜く。突然、部屋の外から読経が聞こえてきた。耳をそばだてる。遠くを走るバイクのエンジン音が読経の正体だった。「休学かなあ……」悟はキッチンの冷蔵庫を開けながら呟いた。ビールが切れていた。悟はキャラメルを口に放り込むと玄関のドアを開けた。三日ぶりの外出だった。
マンションを出て一方通行の坂道を下るとT字路に出る。接骨院の角を左に曲がり100メートルほどいくと酒屋だ。『むつみ商店街』とプレートの掲げられた鉄製のアーチをくぐる。しかし、商店街とは名ばかりで、家屋の半数以上は一般住宅だった。したがって商店は拍子抜けするほどまばらだったし、なおかつ一様にみすぼらしかった。商店と民家以外は、空き地か空き店舗か正真正銘の廃屋だった。コインランドリーのベンチで体操着姿の少年がコミック雑誌を読んでいた。洗濯物が乾燥機のドラムを叩いている。そのリズムはこの町の心音を連想させ、共鳴することも消え入ることもなくただそこに薄く堆積していった。
悟は小さくなったキャラメルを飲み込むと、接骨院の角を左に曲がった。20メートルほど先に救急車が止まっている。十人くらいの野次馬が縁石の上にブロイラーのように並んでいた。後からパトカーのサイレンが近づく。悟はアイスクリームの自販機の陰に身を寄せてパトカーをやり過ごす。パトカーはサイレンを消すと、のろのろと動いて停車した。
警察官が車止めの赤いパイロンをアスファルトに置く。野次馬の列が崩れ、歪な馬蹄形になり、その中に空色のワンピースを着た四歳くらいの女の子が仰向けに倒れていた。小太りの救急隊員が心臓マッサージをしている。少女の鼻と耳から血が流れていた。長身で痩せぎすのサラリーマンがスーツの内ポケットからハンカチ取り出すと、片膝をついて少女の血を拭う。傍らでAEDの準備していた救急隊員が咄嗟に男を制止するような素振りをしたが、再び何事もなかったかのように作業にもどった。
腰の曲がった老婆が「肘……」と呟き泣き出した。少女の左肘は不自然な角度で折れ曲がっている。老婆は杖代わりの買い物カートからポケットティッシュを取り出すと再び嗚咽した。少女はマネキンのようだった。血を拭き取られたことでより一層少女の「日常」は希薄になっていた。今の少女に残された唯一の日常の痕跡。それが不自然に折れ曲がった左肘の非日常性だった。ほんの数分前まで少女は、たしかに、笑い走り歌うことができたのだ。
悟はジーンズのポケットから携帯を取り出すと、電源を入れ録画ボタンを押した。
『山瀬コーポ第二』 最初にマンションの白いタイルに埋め込まれた表札を収めた。カメラをゆっくりパンする。救急車と車内電話をかけている救急隊員。そしてカメラを少女にフィクスした。少女は小さな矩形で切り取られれ、バイトに変換されコンテンツになる。ふいに液晶の中の少女はずいぶん前からの顔見知りのようで、奇妙な感じがした。長身のサラリーマンが射るような視線で悟を見ていたが、撮影を続けた。
がっしりとした体躯の若い警察官がマンションの四階あたりを指差しながら、生花店の店主から事情を聞いている。
「うん。その手前の部屋」
「ご家族、ご存知ですか?」
「ああ、お母さんは佐川さんで事務やってるって言ってたなあ。あと六年生のお兄ちゃんがいるねえ」
「佐川さんは……佐川急便ですか?」
「そそ。たぶん弦巻の営業所じゃないかなあ」
悟はカメラを再びマンションに向け、四階のベランダをズームした。アルミニウムの手すりにアニメのシールが何枚も貼ってある。部屋は蛍光灯がついているのに、やけに薄暗く感じた。そこで悟は携帯の電源を切る。
背後から肩を軽く叩かれた。白髪交じりで短髪の警察官が腰に手を当てていた。
「お宅は、なにか、関係者の方?」
「いえ……すいません」
悟は小さく返事をすると携帯を尻のポケットに滑り込ませ、もと来た道を引き返す。
接骨院に差しかかった時、ふいに涙が溢れ出した。しゃくり上げそうになって、あわてて奥歯を食いしばる。コインランドリーの少年と目が合った。少年は無表情のまま再びコミック雑誌に視線を落とす。水銀灯のヒグラシが短く鳴いた。
<了>